Nature 525( 2015)333-338.
「貯蔵された記憶を可視化・消去する新技術を開発」 記憶のメカニズム解明に前進
1.発表者: 河西 春郎
(東京大学大学院医学系研究科 附属疾患生命工学センター 構造生理学部門教授)
2.発表のポイント
◆神経細胞上の樹状突起スパイン(注1)が学習・記憶に伴い増大することに着目し、新生・ 増大スパインを特異的に標識し、青色光でそのスパインを収縮させる事が可能な蛋白質プロ ーブ(記憶プローブ)をマウスで開発し、学習・記憶が貯蔵されている場所を可視化・操作 する新技術を(世界に先駆けて)確立しました。
◆運動野を記憶プローブで標識後に青色光を照射すると、運動学習で獲得された記憶が特異的 に消去され、記憶は脳内の少数の神経細胞に密に書き込まれていることが明らかになりまし た。
◆こうして記憶に関わるスパインの脳内の大域的な分布を標識する可能性が拓かれ、脳機能や その疾患の解明に新しい糸口が開かれました。
3.発表概要: 大脳皮質の数百億もの神経細胞はシナプス(注1)を介して情報をやり取りしており、特に
グルタミン酸作動性シナプスの多くは樹状突起スパインという小突起構造上に形成されます。 スパインは記憶・学習に応じて新生・増大し、それに伴いシナプスの伝達効率が変化するので、 脳の記憶素子と考えられてきました。しかし、記憶の獲得時に、実際に使われている多数の記 憶素子の分布を同定し、実際の記憶への関与を検証する方法はありませんでした。今回、東京 大学大学院医学系研究科附属疾患生命工学センター構造生理学部門の林(高木)朗子特任講師、 河西春郎教授らの研究グループは、学習・記憶獲得に伴いスパインが新生・増大することに注 目し、これらのスパインを特異的に標識し、尚且つ、青色光を照射することで標識されたスパ インを小さくするプローブ(記憶プローブ、図 A)を開発しました。この記憶プローブを導入 したマウスでは、運動学習によって獲得された記憶が、大脳皮質への青色レーザーの照射で特 異的に消去されました。また、各々の神経細胞における記憶に関わるスパインの数を数えたと ころ、大脳皮質の比較的少数の細胞に密に形成されていることがわかり、記憶を担う大規模回 路の存在が示唆されました。こうして、スパインが真に記憶素子として使われている様子を可 視化し、また操作する新技術を世界に先駆けて確立しました。
本研究は、日本医療研究開発機構(AMED)の「脳機能ネットワークの全容解明プロジェク ト」(平成 27 年度より文科省より移管)、戦略的国際科学技術協力推進事業 日英研究交流「次 世代光学顕微法を利用した神経科学・病因解明につながる分子メカニズムへの挑戦」(平成 27 年度以降 JST から AMED へ移管)、科学技術振興機構(JST)の戦略的創造研究推進事業 および文部科学省・科学研究費の支援を受けて行ったもので、国際科学誌「Nature(電子版)」 に2015年9月9日付オンライン版で発表されました。
4.発表内容:
1 研究の背景・先行研究における問題点 大脳皮質の樹状突起スパインは学習・記憶に応じてその形態・サイズが劇的に変化し、
それに伴いシナプス伝達効率が変化します。大きなスパインには多くの受容体が存在し、 すなわちシナプス結合が強く、一方、小さいスパインはシナプス結合が弱いことが知られ ています。さらに小さなシナプスが大きなシナプスへ変換することにより長期的にシナプ ス結合強度が大きくなること(長期増強、注2)が知られています。スパインは興奮性神 経細胞の接続部の大部分を形成するので、スパインが新しく形成されたり、またその大き さが変わることにより、どの脳神経回路にどの程度の電気信号が流れるかが大きく左右さ れます。それゆえにスパインが脳神経回路の記憶素子と考えられ、学習・記憶の細胞基盤 であると推測されてきました。しかし生きたままの動物の脳内で記憶に関連するスパイン を標識し、さらには操作する手法が無かったため、スパインと学習・記憶との関連は直接 的には示されておらず、両者の関係はあくまでも相関があるというレベルの証明にとどま っていました。
2 研究内容 そこで、本研究グループは、学習・記憶時の長期増強に伴いスパインが増大することに
着目して、長期増強を示したスパインだけを標識・操作するために、5 種類の遺伝子を組 み合わせた人工遺伝子である記憶プローブを設計し、生体内で記憶プローブ(蛋白質)を 作り出すようにしました(図 A)。その基本となるのは、PaRac1 蛋白質という光遺伝学(注 3)で使用される光感受性蛋白質です。この蛋白質は青色光を吸収すると蛋白質の立体構 造が変化し、発現しているスパインを収縮させます(図 B)。そこで、PaRac1 を長期増強 したスパインだけに集積するように細工し、集積したスパインを蛋白質の蛍光により“見え る(可視化)”ようにしたものが記憶プローブです(図 A)。実際にスパインに強い長期増 強刺激を与え、そのサイズを増大させると(図 C、矢頭)、記憶プローブが長期増強スパ インに集積することを確認しました(図 C、右図、赤丸)。